きぼうのでんき2025年12月号

再エネ、って続けるべき?
"原発立地県"茨城の生産者と組合員が、本音で話しました

東京電力福島第一原発事故から15年。廃炉が進む一方で、その他の原発では再稼働もとりざたされるなか、私たちの暮らしを支えるエネルギーの在り方は、ずっと議論が続く難しいテーマです。福島の事故で直接被害を受けた原木しいたけ農家と、茨城に暮らし続けてきた組合員が語ってくださった「本音」とは?

飯泉厚彦さんと新井弘美さん
飯泉厚彦さん
なかのきのこ園 代表
新井弘美さん
パルシステム茨城栃木
組合員理事

「さようなら原発全国集会」で飯泉さんが語った意外な言葉

新井

飯泉さんは東京電力福島第一原子力発電所の事故による被災者のおひとりとして、「さようなら原発全国集会」(※1)でもお話をしてくださいましたね。原発事故から15年。もっともお伝えになりたかったことは何だったのでしょう?

飯泉

私は放射能汚染の被害を直接受けた当事者として、その顛末を振り返った私なりの見解をお話させていただきました。

新井

飯泉さんは当時、お父さまが育て上げた原木しいたけの生産団体「なかのきのこ園」(パルシステム産直産地、JAつくば市谷田部産直部会の菌茸部会に所属)の危機に瀕して、その後継者として寝る間を惜しんで奔走されていましたね。

飯泉

集会の事務局からは「お好きなようにお話ください」と言われたので…(笑)。そこでお話したのは「罪を憎んで、人を憎まず」ということでした。

私が父と営んでいたきのこ園は、原発から150km以上離れた茨城県の谷田部という地域です。しかし事故後に放射能は風に乗って南下し、谷田部の地にも降り注ぎます。そのため野積みしていたホダ木(菌を植えた原木)はすべて破棄しなくてはならなくなりました。もちろん、手塩にかけて育てた原木しいたけ自体も販売できなくなりました。

新井

当時、とくにしいたけは放射能の検出が顕著で問題視されていましたね。

飯泉

もともと私たちは、質が良いとされていた福島の原木を使用していたのですが、そのすべての入手先がゼロに。そこで北東北や信州に活路を見出そうとしましたが、なかなかうまくいかず、消費者の買い控えも顕著になり…何度も「廃業」の文字が頭に浮かびました。実際、離農した仲間も多数います。

新井

その後、ようやくホダ木の調達先を見つけ、ハウス栽培による周年出荷体制をつくったことで安全と信頼の回復に努められた。また「東日本原木しいたけ協議会」(※2)を設立され、被災地の生産者連携の強化に尽くされ今に至ったんですね。

真剣な対談の様子

対談の様子

原発立地県で暮らす当事者として、複雑な思いを語り合う飯泉さんと新井さん。

復活を遂げた原木しいたけ栽培

「罪を憎んで、人を憎まず」、ふたつの思い

飯泉

「東日本原木しいたけ協議会」は生産者団体として直接、東京電力に賠償請求をする役目もあり、何度も担当社員と激論を交わしました。

でも、そのときふたつのことを思ったのです。

ひとつは「なぜ私たちは一企業と賠償の話をしているのだろう?」。もちろん過酷事故を引き起こし、その事故処理と被災者補償に努めるのは、運営企業としては当然です。しかし、原発を国策としてエネルギー政策の中心に位置付けたのは国。本来であれば私たちは国を相手に戦うべきなのではないだろうか、と。

もうひとつは「事故処理にあたる東京電力の社員自身を批判してはならない」ということでした。

賠償請求の話し合いの度に、不安と不満と怒りを持つ私たちのもとへ来られる社員さんたちは、毎回真摯に対応くださったと感じています。彼ら自身も家族や生活がある。毎回苦しい対応を迫られ、きっと板挟みにもなっていたかと思います。何度もお話をさせていただくなかで、ご担当の方々とは人間として通じることも多々あったのです。

新井

物事は正悪を単純に判断できるものではなかったのですね。集会での飯泉さんのお話には、はっとさせられる気づきがあり、多くの賛同の声があがったと伺っています。

実は私も茨城県に暮らすものとして、「単純に判断できない」ことがあるんです…。

飯泉

どういうことです?

当事者としての「後ろめたさ」と「葛藤」と

新井

飯泉さんも私も、生まれ故郷も今暮らすのも茨城県という「原発立地県」です。不幸にして事故を引き起こしてしまった福島県も同じ。

一般的に原発立地地域は原発関連の雇用や交付金に支えられている構造も当然根強く、原発というものに対する否定的な姿勢は、必ずしも地域内で自然と受け入れられるものでもない、という現実があります。地域振興やインフラ整備にも原発関連予算は使われてきたでしょう。事故が起きるまでは「原発は安全なエネルギー」として信じてしまっていた負い目もあります。

飯泉

私にも関連企業に従事する知人は少なくないです。私も農家として首都圏の食環境を支えてきた自負がある。エネルギーについても、従事している県民には、そんな「尽くしてきた思い」もあるでしょうね。それが事故を経て完全に「悪者」になった。

新井

もちろん、事故の教訓から「原発に頼らないエネルギー」を推進していくことは消費者としてもパルシステムの組合員としてもまったく異論はないのです。ただ当事者として複雑な思いが行き来するのですね。

飯泉さんは、東海村の事故は覚えてらっしゃいます?

飯泉

茨城県東海村のJCO核燃料加工施設で発生した臨界事故ですね(※3)。大変な事故でした。よく覚えていますよ。

新井

あの事故で亡くなられたおふたりのうち、ひとりはよく存じ上げている方だったんです。

事故のあと、悲しみに暮れるご家族やご親族にはかけてあげるべき言葉も見つかりませんでした。日本の原子力史上、被曝による死亡者を出した初めての重大事故です。振り返れば、効率重視がまかり通ってしまっていた組織的な「人災」でもあり、その矢面に立たされてしまった故人もご家族も気の毒でなりません。

言い換えれば電気を使っている私たちもまた、その人災に加担していたんじゃないかと…。

原発推進と再エネ推進に共通する「問題」とは

飯泉

私も福島の事故後、原木しいたけを作り続けるための対策を続けながら「いや、このまま作り続けていいのだろうか?」と、後ろめたさ故の葛藤にずっと襲われていました。そして「こんな苦しい葛藤を強要する原発ってなんなんだろうな」とも。

新井

原発事故後に原発の稼働は止まり、廃炉が検討される一方で、ウクライナの情勢をはじめ世界情勢が目まぐるしく変化するなか、エネルギーの確保の名目で原発の再稼働の機運も高まり始めていますね。

原発立地県に暮らす者として「単純に判断できない」ところに、また別の波が来ているようで、困惑しているのが正直なところです。

飯泉

戦後のエネルギー需要に応える形で原発は「未来のエネルギー」として無批判に拡大した。世界で唯一の原爆被爆国にも関わらず、です。そして、原発事故を経て今度は再エネの拡大に邁進してきた。そしてその弊害も当然のように出てくる。

この「揺らぎ」は同じ現象じゃないかな、と。

事故被害の当事者として苦しみ抜いたこの15年を踏まえて、私は「原発に頼らないエネルギー」として再エネの拡大を願っています。しかし、検証と計画性は絶対必要です。その冷静さを失わないでいたいですね。

新井

なるほど。パルシステムでんきがさまざまな再エネを成長させようと取り組むことにもまた、それぞれ生産者の立場、組合員の立場で、子どもたちの安心できる未来のために物申していかねば、ですね!

飯泉

引き続き支え合いができればうれしいです!

協同で築く持続可能な未来

協同で築く持続可能な未来

生産者と組合員が手を取り合い、持続可能なエネルギーの未来を築いていく。

※1 さようなら原発全国集会
2025年9月23日に東京・代々木公園で開催。「ともに声をあげよう!―脱原発と気候正義のために」をテーマに多彩なプログラムを展開(主催は「さようなら原発」一千万署名 市民の会/さようなら原発1000万人アクション実行委員会)。

※2 東日本原木しいたけ協議会
福島原発事故後に被害を受けた東日本の原木しいたけ生産者が連携し、放射能汚染や風評被害を乗り越えて原木しいたけの再生と持続的な生産を目指すために設立された団体。単なる生産者団体ではなく、地域の里山文化や食の安全を守る社会的な役割を担い、次世代への継承や地域再生、全国サミットの開催などを通じて発信力を高めており、食と農、環境、地域文化をつなぐ再生のモデルとも評価されています。

※3 JCO核燃料加工施設で発生した臨界事故
1999年9月30日、茨城県東海村のJCO核燃料加工施設で発生した臨界事故は、日本の原子力史上初めて被曝による死亡者を出した重大事故。正規のマニュアルではなく、効率重視の「裏マニュアル」に基づいて作業(高速増殖炉「常陽」用の高濃縮ウランの硝酸ウラニル溶液を製造中、作業員がバケツで沈殿槽に手作業で移送していた)が行われ、沈殿槽に投入されたウラン溶液が臨界に達し、核分裂連鎖反応が約20時間継続。作業員2名が後日死亡、被曝者は周辺住民や救急隊員など含め667名、半径350m以内の住民が避難、10km圏内の約31万人に屋内退避が呼びかけられました。