農作物が作れなくなった土地を
発電でよみがえらせる。
東日本大震災と原発事故から15年。東京電力福島第一原子力発電所(以下、福島第一原発)から南へ約10km圏内にある福島県双葉郡富岡町は当時、最大震度6強を観測。約21mにもおよぶ津波では24名の尊い命が失われ、原発事故により富岡町民約16,000人・約6,300世帯は「全町避難」を余儀なくされました。2017年4月に避難指示が解除された富岡町では、実は震災後から地域住民主体の発電事業が続けられてきました。
主を失い朽ちた商店
富岡町内には震災から時が止まったままの廃屋が残っている。
東京ドーム約7個分の広大な土地を発電所に
葛城裕晃さん
富岡復興ソーラーの保守・管理を務める葛城裕晃さん。
小峯充史さん
株式会社エコロミ代表の小峯充史さん。
朽ちた廃屋と復興住宅の対比
朽ちた廃屋
復興住宅も立ち並ぶ
帰還を果たした住民による新築住宅の隣に、主を失った建物が佇む現在の富岡町。
残り10余年で農地へ戻す環境が整うかどうか
震災から15年。現在、富岡町へ戻り「語り部」としてその教訓を語り継ぐ方々にお話を伺いました。
猪狩輝美さん

なぜ私たちがこのような目に…
新しい家が見られるのはうれしいけど、ここは好きなパン屋さんがあったなぁとか、あそこは子どもと遊びに行ってたなぁとか…。私たちがなんでこんな目に、という思いは消えません。
発災当時、夫は福島第一原発に勤めていました。当時、高校生だった長男は、事故後に復旧作業に戻り奔走していた父の背中を見て育ち、いま息子は、父親と同じ福島第一原発に勤め、廃炉事業に尽力しています。
原発とともに暮らしがあった私たちにとって、その功罪にはひとことでは言い表せない複雑なものがあります。再び、穏やかな暮らしが戻ることを願っています。
青木淑子さん

あのとき想像できなかったのか
震災当時、私は地元・富岡高校の校長を務めていました。通っていた生徒は全国に散り散りとなり、学校は再開されないまま2017年に"休校"が決まりました。校舎内にはいまだ引き取り手のない、当時の生徒の持ち物が残っています。
子どもたちの学びや日常を奪ってしまった原発という存在。かつて原発が町に来ようとしていた時、どうして起こり得る危険を想像して止められなかったのだろう。なんて意識が低かったのだろう…と自分を責めることがいまもあります。
自分事としてエネルギーのことを考えるきっかけを
西内良子さん
パルシステム環境委員会 パルシステム埼玉理事長
廃炉作業や中間貯蔵施設の話題が報道されることも減って、自分事として捉えられなくなっているように感じます。しかし、首都圏に暮らす私たちのために福島に原子力発電所が作られたこと、地震、津波、原子力災害という複合災害は、現在進行形で収束していないことを改めて見つめ直し、私たち一人ひとりできることを考えることも必要ではないでしょうか。
富岡復興ソーラーをはじめ、各地の発電産地が再生可能エネルギーの電気を供給くださっているパルシステムでんきを組合員として利用することもそのひとつ。
日本各地で原発の再稼働が進む中、私たち自身が現地を訪ねたり、パルシステムを通じて現地の状況を理解することができれば、自分事としてエネルギーのことを考えるきっかけにもなると思います。