きぼうのでんき2026年3月号

農作物が作れなくなった土地を
発電でよみがえらせる。

東日本大震災から15年――被災地・福島県富岡町を訪ねて

東日本大震災と原発事故から15年。東京電力福島第一原子力発電所(以下、福島第一原発)から南へ約10km圏内にある福島県双葉郡富岡町は当時、最大震度6強を観測。約21mにもおよぶ津波では24名の尊い命が失われ、原発事故により富岡町民約16,000人・約6,300世帯は「全町避難」を余儀なくされました。2017年4月に避難指示が解除された富岡町では、実は震災後から地域住民主体の発電事業が続けられてきました。

主を失い朽ちた商店

主を失い朽ちた商店

富岡町内には震災から時が止まったままの廃屋が残っている。

東京ドーム約7個分の広大な土地を発電所に

「震災から15年、ここでは毎日のように風景が変わってきました。再び故郷に暮らし続けることができるかどうかわからない状況に住民の誰もが悩み、我が家を取り壊したり、やむなく放置したり。その結果がいまの町なんです」
パルシステムでんきの発電産地でもある「富岡復興ソーラー」の発電所の保守・管理を務めている葛城裕晃さん(株式会社エコロミ)は、発電事業に関わりながら町の復興と葛藤を肌身に感じてきたひとりです。

葛城裕晃さん

葛城裕晃さん

富岡復興ソーラーの保守・管理を務める葛城裕晃さん。

2023年11月30日に特定復興再生拠点区域の避難指示が解除された富岡町ですが、実はいまだ一部、町全体面積の約6.7%で避難指示が継続中とされています。帰還を果たした住民による新築の住宅の隣に、主を失い朽ちた民家や商店がひっそりと佇む光景がそこにはあります。
富岡復興ソーラーは、その名の通り「復興再生」を悲願に作られた太陽光発電所。約34ヘクタール――東京ドーム約7個分がすっぽりと入る広大な土地は、実は農作物が作れなくなった土地となっています。
「10万枚以上のソーラーパネルが並びます。ここはもともと農地でした。しかし原発事故を受けて代々続いていた農業は営めなくなりました。そこで発案されたのが"再生可能エネルギーの発電所をつくって、浜通りの復興再生の礎にしよう"というビジョンだったんです」(葛城さん)

小峯充史さん

小峯充史さん

株式会社エコロミ代表の小峯充史さん。

朽ちた廃屋と復興住宅の対比

帰還を果たした住民による新築住宅の隣に、主を失った建物が佇む現在の富岡町。

残り10余年で農地へ戻す環境が整うかどうか

土地の地権者は約40人にものぼり、全町避難のなか、県内県外に散り散りになった一人ひとりを訪ね、理解を得ていくの```html は想像を絶する苦難だったといいます。そんな日々を奔走したのが、株式会社エコロミ代表の小峯充史さんです。
「作物の育てられない状況を打開するため、復興再生の象徴として太陽光発電所に生まれ変わる。そのビジョンに反対する方はひとりとしていません。しかし、なじみのある故郷の風景が一変することには、誰しも抵抗があったはず。それでもなんとか力になれれば…と苦渋の決断をしてくださった方々の思いが込められた発電所でもあるんです」
幾度となく繰り返された、地権者を対象とした自然エネルギーの学習会。「設備が出来上がったら終わりではなく、そこからどのように富岡町の未来につなげていくのか」が重要であることを繰り返し説明し、相互理解を深めたといいます。
「最終的には地域住民が主体になった自然エネルギー事業としては桁外れに大きい32メガワット(一般家庭約1万世帯分の電力)、総事業費は90億円以上という大プロジェクトになりました。売電の収益は、高齢者の送迎サービスなどの福祉支援や農業支援などの復興事業に使われる計画です」(小峯さん)
一方、富岡復興ソーラーはあくまで「復興再生のため一時的にその土地を発電事業に活用する」前提のため、2038年以降は原状復帰して地権者への返却が原則です。その前に地権者の方々とどのようにするかを検討予定です。
「再び故郷の姿を取り戻すことが最大の目的。ここでまた農業をやりたい方が戻ったり、新天地に魅力を感じてくださる方が移住くださればこれほどうれしいことはありません。ただ、農地にしてお返しすることで果たしてそれが"解決"となるのかどうか。その答えはこれから10年ほどの歩みにかかっています」(葛城さん)

震災から15年。現在、富岡町へ戻り「語り部」としてその教訓を語り継ぐ方々にお話を伺いました。

NPO法人富岡町3.11を語る会の語り部の皆さん

猪狩輝美さん

NPO法人富岡町3.11を語る会の語り部 猪狩輝美さん
猪狩輝美さん

なぜ私たちがこのような目に…

新しい家が見られるのはうれしいけど、ここは好きなパン屋さんがあったなぁとか、あそこは子どもと遊びに行ってたなぁとか…。私たちがなんでこんな目に、という思いは消えません。

発災当時、夫は福島第一原発に勤めていました。当時、高校生だった長男は、事故後に復旧作業に戻り奔走していた父の背中を見て育ち、いま息子は、父親と同じ福島第一原発に勤め、廃炉事業に尽力しています。

原発とともに暮らしがあった私たちにとって、その功罪にはひとことでは言い表せない複雑なものがあります。再び、穏やかな暮らしが戻ることを願っています。

青木淑子さん

NPO法人富岡町3.11を語る会の代表 青木淑子さん
青木淑子さん(NPO法人富岡町3.11を語る会の代表)

あのとき想像できなかったのか

震災当時、私は地元・富岡高校の校長を務めていました。通っていた生徒は全国に散り散りとなり、学校は再開されないまま2017年に"休校"が決まりました。校舎内にはいまだ引き取り手のない、当時の生徒の持ち物が残っています。

子どもたちの学びや日常を奪ってしまった原発という存在。かつて原発が町に来ようとしていた時、どうして起こり得る危険を想像して止められなかったのだろう。なんて意識が低かったのだろう…と自分を責めることがいまもあります。

自分事としてエネルギーのことを考えるきっかけを

西内良子さん

パルシステム環境委員会 パルシステム埼玉理事長 西内良子さん

パルシステム環境委員会 パルシステム埼玉理事長

西内良子さん

廃炉作業や中間貯蔵施設の話題が報道されることも減って、自分事として捉えられなくなっているように感じます。しかし、首都圏に暮らす私たちのために福島に原子力発電所が作られたこと、地震、津波、原子力災害という複合災害は、現在進行形で収束していないことを改めて見つめ直し、私たち一人ひとりできることを考えることも必要ではないでしょうか。

富岡復興ソーラーをはじめ、各地の発電産地が再生可能エネルギーの電気を供給くださっているパルシステムでんきを組合員として利用することもそのひとつ。

日本各地で原発の再稼働が進む中、私たち自身が現地を訪ねたり、パルシステムを通じて現地の状況を理解することができれば、自分事としてエネルギーのことを考えるきっかけにもなると思います。